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フェニックス救援隊といっしょに女川へ

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3・11大震災から1年たってようやくボランティア活動の機会に恵まれた。東北被災地で救援活動を行っているフェニックス救援隊のお誘いを受け、企業年金基金連合会東京地方協会の関係者ら31名と2日間行動を共にした。
モルガンスタンレー・アセットマネジメントで年金営業を担当してきた古川千春さんは、新潟の実家が中越地震で被害を受けて以来、災害の現場にかけつけて救援活動を行うようになった。3・11大震災後も被災地にいち早く現地に入り、野外風呂を設置するなどボランティア活動を開始した。古川さんが始めた活動に一人二人と仲間が加わり、今では古川隊長以下、百人以上が参加するフェニックス救援隊となった。
3月28日、私たちは仙台駅からバスで女川に向かった。途中でフェニックス救援隊が支援している地元のノリ養殖業者の相沢さんがバスに乗りこみ、震災の体験を語ってくれた。相沢さんはお父様と親友を津波で失い、喪失感に苦しんだが、多くの人に支えられてノリ養殖に復帰するようになったという。
私たちは地元のボランティアの人たちと総勢百名で、女川町の医療センター裏山の斜面にシバザクラ一万二千株で「We ❤ 女川」という花文字を作り、ソメイヨシノも15本植えた。裏山は30度の急斜面で、この絶壁にシバザクラを植えるのは一苦労。一方、田植えに慣れた地元の方々はスイスイ植えていた。四月中旬ごろになるとこのシバザクラの花文字が女川湾に入ってくる漁船を迎えることになる。
医療センターの先生たちとお話した後、南三陸町のホテル観洋へ向かう。ホテルには海に突き出た大きな露天風呂があり、そこから日の出を眺望できる。ホテルのお食事もお魚づくしでおいしい。外国人のグループの含め、多くの宿泊客でにぎわっていた。
翌日29日は石巻漁港に向かった。水産加工工場(まだ仮設)を見学し、焼崩れた門脇小学校の記念碑にお参りした。この小学校は避難所になっていた。地震の後に津波で運ばれてきた真っ黒な重油が引火し、小学校は火の海となった。校舎に避難していた多くの人たちが焼死した。そんな悲劇の起こった小学校の校庭のすみでは、子供たちがサッカーをしていた。焼けただれた校舎の両側には新しい墓石が立ち並び、なんとも悲しく、異様な風景だった。
それから、バスで町の市場に向かった。皆さんはカニを買って自宅に送っていた。市場で働く女性が私たちに「一年たちましたが、これからが本当に大変なんです。どうやって生活していけばよいのか」と話していた。
地元の食堂で昼食中に、フェニックス救援隊が支援している木工作家の遠藤伸一さんが話しに来てくれた。石巻には津波に流されて亡くなった英語教師のテイラー・アンダーソンさんを記念してテイラー文庫が作られた。テイラーさんのお父さんが娘の教え子たちに本を贈りたいと計画し、遠藤さんはその本棚を作り寄贈した。遠藤さん自身、お子さん3人を失っていた。私は温かみのある木工細工の写真立てを購入し、遠藤さんにサインをもらった。
昼食後、高砂長寿味噌工場へ移動。高砂味噌は「おいしんぼう」でも取り上げられた有名な製造元。工場長が清潔で近代的な工場をぐるりと外から見ながら、製造工程を説明してくれた。お味噌も昔の手作業がだいぶ機械化・自動化されている。お味噌の工場のすぐ近くには浦霞の酒造元があり、この辺は水がとてもよいという。
高砂長寿味噌の社員の皆さんは震災を逃れたが、その後この地域に支援の手が届かなかったために食事が満足にとれず、栄養失調になった。フェニックス救援隊やNPOボランティアの人たちにずいぶん助けてもらったと話していた。本当によくここまで復興したものだ。
工場から道路を隔てて仮設住宅が何棟も立ち並ぶ様子が目に入る。「ついこのあいだもボヤがありました。子供たちがいたずらして放火したのです。以前は殺人もありました。知らない人同士が一か所に住むのは大変なことで、酒に酔った勢いでいざかいごとも多いのです」と地元の方が話してくれた。表ざたにはならない暴力やレイプもあるという話しは聞いていたが、仮設住宅の暮らしは相当なストレスを人々に強いている。
現場を歩き、現地の人たちの声を聞くと厳しい現実と戦わなくてはならないと気が引き締まる思いがする。同時に、そうした被災地の人々に寄り添うフェニックス救援隊やボランティアの皆さんには頭が下がる。3・11から1年以上たっても廃車が積まれ、瓦礫の山はまだ残っている。福島原発は収束のめどが立たっていない。重い一日を祈るように生きる。これが現実である。

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